小特集:池田久輝『枯野光』刊行記念 (角川春樹事務所 PR誌ランティエ 2014年9月号)
文芸評論家 西上心太
世界の各地にはそれぞれ独特の〝匂い〟があり、その国の入り口である空港から一歩外に出た時にそれを感じるという。誰のエッセイだったか忘れてしまったが、そんなような文章をかつて読んだ記憶がある。韓国はキムチ、日本は味噌醤油など大豆発酵食品の匂いがするという。
ふーん。なにしろ海外といえばサイパンとシカゴしか行ったことないからなあ(飛行機嫌いだしさ)。サイパンで空港の外に出た時は熱帯地方特有の蒸し暑さを、真冬のシカゴではキリリとした寒さを体感したけれど、特にかの地ならではの〝匂い〟を感じることはなかった。鼻が悪いだけかもしれないけれど。
しかしながら、気候も暑く、食事に刺激的なスパイスを多用する東南アジアなら、キムチや味噌に匹敵するような〝匂い〟を感じ取れる可能性が高いのではないか。それを確かめるべく行動する資金にもヒマにも乏しく、もちろん飛行機が嫌いな御仁でも、異国の〝匂い〟を手軽に感じ取れる方法がある。そうです、池田久輝の小説を読めばいいのだ。
池田久輝は二〇一三年に香港を舞台にした『晩夏光』(『港の足』改題)で、第五回角川春樹小説賞を受賞してデビューした。選考委員の一人である今野敏が選評(「ランティエ」二〇一三年八月号)の中で、「香港という町の匂いがひしひしと伝わってくる」と真っ先に書いていたのが強く印象に残った。次いで「いろいろな事件が起こり、物語のなかで時間がかなり前後するにもかかわらず、それが見事にまとまっていて違和感なく読めた」、「登場人物が目の前に見えるかのように立ち上がってくる」など、プロット構成力や人物造型力など技術的な面について言及している。
今野敏の選評はほぼ絶賛する内容に終始しているのだが、〝香港という町の匂い〟についてはじめに言及している点に注目すれば、技術だけではカバーしきれない、作者が持つ感覚的な何かに魅せられたことに間違いないだろう。
『晩夏光』は、香港の裏社会と表社会の狭間を自在に行き来しながら、盗品の〝回収〟を中心に金貸しなどを行う何でも屋の元締め・陳小生に使われる、日本人新田悟を主人公にすえた作品だった。恋人を事故で死なせてしまい、抜け殻のようになって香港に流れてきた悟は、偶然出会った陳小生に拾われ、露天商から盗品を買い戻し、依頼を受けた被害者から手数料を受取り、利鞘を稼ぐ〝足〟の仕事に従事している。ある時〝足〟仲間の劉巨明が殺害された。陳小生の命令で、劉の妻と接触した悟は、彼女から劉巨明が残した謎めいたメッセージを受け取る。一方、二年前に十五歳の少女、玲玲が飛び降り自殺する事件があった。彼女は陳小生の部下の一人娘であるだけではなく、陳が特別な感情を抱いている少女だった。いまも尾を引く少女の自死事件と、現在の殺人事件。二つの事件を軸にした暗闘に悟は巻き込まれていく。
主人公は新田悟であるが、彼が大活躍する類の物語でないことが逆に新鮮だった。悟の行動はあくまでも陳小生の命令による受け身的なものなのだ。だがその過程で、彼がとらわれ続けている忌わしい記憶を乗り越えていく。そう、これは悟の再生を描く物語だったのだ。作者の計算だったのかどうかは不明だが、そういうテーマの物語だったおかげで、陳小生や、彼に首根っこを掴まれている〝悪徳警官〟の羅朝森など、サブキャラクターの魅力が際立つことになったのは思わぬ収穫だった。それを生かしたのが受賞第一作となる本書『枯野光』である。
香港で現地ツアーコンダクターを務める石原雪子は、何者かがアパートの部屋を窺っていることに気づく。雪子の様子から事情を知った食堂の店主・呉星は、雪子を匿ってほしいと陳小生に依頼する。
一方、陳小生は刑事の羅朝森からも、借金以外の頼みを受けていた。その依頼とは、元秋男という男の行方探しの手助けだった。元秋男は羅朝森と同時期に警察官に採用され、新人研修を共にした仲間だった。ところが二人で向かった麻薬取引の現場で元秋男は犯罪組織から大金を奪い、そのまま姿をくらませてしまったのだ。最初から羅朝森を利用し、裏切ることが元秋男の計画だった。その男が二十年ぶりに香港に戻ってきたらしい。その噂を聞きつけた羅朝森は、警察官ではなく一人の男として〝旧友〟と対峙しようと考えたのだった。
やがて事態は動きだす。石原雪子が何者かに拉致され、羅朝森も銃で撃たれ負傷する。二つの事件に関わった陳小生は奔走し、やがて事態は一本の線で結ばれていく。
前作の主人公、新田悟は映画でいうところのカメオ出演で数シーンに顔を見せるだけ。それに代わって大きくフィーチャーされるのが、何でも屋の元締めである陳小生であり、刑事の羅朝森である。『晩夏光』の冒頭では、弱者を食い物にする冷酷な悪党という印象の陳小生だったが、子分や世話をする者たちには身体を張ることを厭わない、懐の深い人物であることがわかってくる。今野敏との対談(「ランティエ」二〇一三年十一月号)でも「こんなキャラクターって今まで見たことない」という今野の言葉を受けて、池田久輝は「僕の中のイメージは完全にトニー・レオンでした」と述べている。
前作以上の活躍を見せる陳小生の姿を見て、ふとわたしは「清水次郎長伝」の清水次郎長、「天保水滸伝」の笹川の繁蔵など、浪曲などに登場する清濁併せ呑む大親分たちを連想してしまった。善人も悪人も等しく受け入れ、裏切りは許さない代わりに、懐に入った者たちは損得を度外視して面倒を見る。日本人のメンタリティに合致するキャラクターではないか。
また羅朝森もいい。陳小生から多額の金を借りているのだが、ギャンブルや酒などの遊興費ではなく、やむにやまれぬ事情のための借金だということもわかってくる。そして麻薬などを扱う犯罪組織や犯罪者に対する怒りを決してなくさない警察官なのだ。
前作は男の再生がテーマだったが、本書は羅朝森と元秋男との二十年に及ぶ恩讐を抱いた友情と、三代にわたる親子関係の愛憎が描かれる。「昔からすごく香港好きで、全く個人的趣味で書いた作品」でデビューした作者が、前作以上に香港の〝匂い〟がする物語を完成させた。これまで縷々述べてきたように、人物の造型はすばらしく、プロットを構成する力も前作より長足の進歩を遂げている。香港に一度も行ったことのないわたしのような人間でも、かの地の〝匂い〟を体感できる物語世界に引き込まれていけるのだ。キャラクター以外は独立した作品なので、たとえ前作を読んでいなくても楽しみが損なわれることはない。
期待の新人の飛躍となる作品をお楽しみいただければ幸いだ。(本誌から一部抜粋)